『目には目を、歯には歯を』
『ペンは剣よりも強し』
そして、
『能ある鷹は爪を隠す』
〜GOD BLESS YOU〜
最新更新日 2003/7/28
今日は、この季節柄にしては例年と比べ、随分と暖かく感じられた。でも、おそらくは今年が特別暖かい訳ではないのであろうが、今日という日は私、
紀子(のりこ)にとってとてもお祝いすべく楽しい一日でもあったからであろう。
その理由は、女手一つで育てた今年中学1年生の一人娘の千秋が、近隣の中学校に入学したからである。今日は、千秋の入学式だった。
その入学式には残念ながら、母親の私は仕事の為に出席出来なかった。
その代わりに、私の実母である道代が出席してくれたのであった。
今日という日が私にとってこの季節がとても暖かく感じられたのは、母親として、娘が無事に中学生となり、片親というハンディ・キャップを乗り越え、明るく健康
に育ってくれた事が、なにより私にとって、この上ない喜びであったからであろう。
私は、父親、緒方省吾の産婦人科の病院を受け継いだ女医である。
病院の所在地は、浅草に近い下町にあり、父親の時代に建てられたその病院はすでに40年の歳月が流れていた。今ではその建物も古び、色々な壊れかけ
た部分の修繕もしょっちゅう行われていた。この修繕費も病院の経営にとってはかなりの負担で、年々増加する修繕費にはいつも頭を痛めていた。
そのことを母道代に相談すると、いつも決まってこう答えた。
「お母さんは、誰がなんと云おうと、私はあの病院だけは壊しませんよ。」
とかたくなな表情とともに、いつもこの話題に及ぶと、必ずというほど、母と私の会話に冷気が立ち込んでしまう。毎年、毎年この話が出るたびに、私は母の頑固さ
には、つくづく嫌気がさし、それ以上母と話をするのも、面倒になり、会話がなくなってしまうのである。
母もその話題は極力したがらない様子であった。
私は、心の中で、いつも叫んでいた。
「どうして、私だけがこんな苦労をしなくてはならないの?」と。
そうは云っても、現実は目の前にあり、その責任を誰に押し付けられないことも事実である。
正直な心で物を云えば、母がとても傷つくかもしれないと、私は母の気持ちが十分に分っていたので、その先は必ず口をつぐんだ。(7/22 UP!)
父と母の出会いは、42年前の国立系の関東にある医学部と薬学部がある大学で知り合った。父も母も東京育ちで田舎の風景に憧れており、
のんびりと過ごした大学生活には十分満足し、快適な生活だった。ただ、それも医学の勉強を除いては。
もともと父方の親戚には、医者や弁護士が多く、いわゆるエリート系の家系であった。また父方の親戚には、政治家も数人いて、口利きをしてもらえば
東京の名門大学の医学部でも入学は可能だったかもしれないが、父は幼少の頃から熱血漢があり、不正など忌み嫌っていたため、結局親にも頼らず、
自分自身でその関東にあるS大学の医学部に入学してしまったらしい。一人息子だった父は、祖母は父親をかなり溺愛していて、
S大学に入学したと訊いた途端、涙を流しながら訴えた。
「何故、省ちゃんはお母さんを無視して自分勝手に決めてしまうの?お父さんもお母さんもてっきりあなたは東京の大学へ行くものだと信じていたのに。」
「お母さん、もう僕は子供ではありませんよ。そりゃー、お母さんが今までに愛情を込めてしっかり僕の面倒を見てくれたことは、心から感謝するよ。
でも、僕は散々お母さんの云うことを忠実に守り、なんでもはいはい、とまるで忠犬ハチ公のようだった。エリート学校に進学して小、中、高と一
貫して学んだ。『お父さんのように、立派な男になりなさい。』と云ってたけれど、それがいつもお母さんの口癖だった。僕はいつも心の中でお父さんのように
なりたいなんて一度も思わなかった。お母さんには悪いけれど。」
「あなたがそんな風に考えていたなんて気づかなかったし、お父さんだってあなたに期待しているの。」
と母は涙をこらえようとしながら云った。
「お父さんは東京の名門大学の経済学部を卒業して、商社で働き、エリートコースに何の疑問も持たずに出世して行った。僕だってお父さんを心から尊敬をし
お父さんが一生懸命働いてくれたお陰で、お母さんも僕も何不自由なく、暮らしてこれた。だけどお父さんは、働き蜂のように仕事、仕事ばかりで僕と
お母さんのことは、まるで眼中になかったじゃないか。」
「省ちゃん、それは違うわよ。戦争が勃発して、日本は窮地に追いやられ、敗戦し、東京は空襲で焼け野原になって人々が怒涛に迷い、今日生き残る
ことすら、それはそれは大変な世の中だったのよ。その中で、日本の復興の為に、お父さんは昼夜通して本当に頑張っていましたよ。省ちゃん、お母さん
だって辛かったのよ。でもね、日本中の皆が頑張っているのに、私だけ我がままを云えないでしょ?」
「それは、僕にだってお母さんやお父さんの大変さは手に取るように理解するけれど。でも僕には本当の人生って何だろうと思っていた。」
祖母は絶句して下をうつむいたままでいた。
父はその暗澹たる哀しい雰囲気にいたたまれず、部屋を出て行った。
母道代の父親(孝太)は、浅草の下町に小さな薬局屋を経営していた。母(真知子)と姉(貴美子)はその薬局屋で働いていた。
道代と姉の貴美子とは6歳離れており、年が離れているせいか、姉と遊んだ記憶がない。姉は父親の後継ぎへと両親は考えていたのだが、
貴美子はあまり理系の勉強が好きではなくて、薬剤師になる素質がからきしなく、両親は貴美子が高校での理系の成績が、芳しくなかったので、
貴美子への薬剤師への期待は薄れたとはいえ、やはり女子であれどもこれからの女性は手に仕事をつけなければという考えをもった両親だったので、
貴美子には、栄養士の資格が修得できる短大へと進学させた。まんざら、貴美子も料理が好きで、また忙しい両親に代わり、よく家事の手伝いを母親
の代わりを勤めていた。性格は道代とはまるきり違い、温和でおとなしく、引っ込み思案で、道代にとっては、貴美子の性格がいらいらするものだった。
しかし、貴美子の家族への献身さには、いつも頭が下がる思いだった。
「お姉さんに、早くいい人が現れたら素敵なお嫁さんになるんだなあ」といつも心の中では貴美子に憧れていた。
道代は姉貴美子とは性格が逆で、とても活発で破天荒な性格だった。
つまり、『お転婆娘』といったところであろう。
近所の男の子とは平気で喧嘩をするし、大きなざくろの木を見つけては、木に登り、その赤赤と熟れているざくろを拝借し(というより盗みに近い)ては
近所の子供たちにも分けてあげたり、所謂『女版ガキ大将』というこであろう。
下町特有の気質で、面倒見が良く、困った人がいれば親切心に血が騒ぎ、かなりのおせっかいで、よく大人たちの会話に入っては、側耳をたてていた。
道代は、とても大人びた少女だった。
また、道代は、おおらかに育ちすぎたのか、人に騙されることもしばしばあった。また、浮浪者がいると心痛くて、すぐに自分の小遣いをあげたりするものだから
次に小遣いが必要になると、両親にせがむのだが、道代の両親もお人好しの性格から、道子の行動を暗黙に見つめながらも、
「道代、お前のお人好しもわかるがな、自分の生活のことも考えろ。」と父親から怒られるのだが、また喉もと過ぎれば、父親の助言など、何処吹く風状態となり
道代の脳裏からは、すぐさま消失して行った。
家族は、このような破天荒でお人好しの『道代の人生』にはことごとく心配していた。(7/23 UP!)
父の実家は、T大学の赤門に近く徒歩で15分位の大きな伝統的な日本家屋の様式をした大きな家だった。
祖父の秀太郎と祖母清子と一人息子の省吾の3人家族で住むにはかなりの大きな屋敷だった。特に省吾のお気に入りは、大きな庭に、とても広い
池があり、池の中には鯉が飼われており、物心ついた時から、鯉を眺めるの大好きだった。
秀太郎も清子も最初の後継ぎが男子だったために、それは大変喜び、省吾を大変可愛がっていた。
省吾には、乳母の初老の幸がいた。
清子は幸がかなりの年齢になっていたことから、あまり良い顔はしていなかったが、幸は身寄りが無く天涯孤独の身だったため、秀太郎と話し合いの結果
緒方家で一生涯見ようということにした。でも、幸にはそのことについてはまだ内緒にしていた。
その理由(わけ)は、幸は心から優しい女性であり、もしそのようなことを云ったとしたら、きっと幸のことゆえ、恐縮してしまい、この屋敷から逃げてしまうのではないかと
危惧した為だった。だから、秀太郎と清子は、いい機会を見て、改めてそのことを幸に伝えようと話し合った。
本当に幸は、この家族を心から思いやり、優しい気持ちで、まるで家族の一員のようであった。
特に幸は何度も空襲を受ける度に、まだ幼い省吾を負ぶっては、清子の手を繋いで、物凄い戦火の中を通り抜け、より安全な防空壕を見つけ出し、
かくまってくれていたからであった。
ある日清子は防空壕の中に籠もっていた時に、幸に尋ねた。
「幸さん、どうして幸さんは、私たち親子を命がけで守ってくれるのですか?」と。
幸は、暗がりの中でも、明るい笑顔でこう答えた。
「私は、緒方家に本当に命を助けて頂いたのです。私は秀太郎様のお父様の吉幸様のお優しいお心遣いに心から感謝しているのです。」
と涙ぐみながら云った。
はじめてそのことを尋ねた清子だったが、嫁に嫁いできた当時の緒方家では、何故か幸の生い立ちにあまり話したがらず、訊くことさえタブーな雰囲気だったので、あえて訊くことは
しなかった。
「宜しかったら何が幸さんにあったのか、訊かせていただけますか?まぁ、幸さんがおっしゃりたくなければ、あえてお訊きいたしませんけれど。」
幸は、何回か口ごもりながら、やっとの想いで話してくれた。
そして、深い眠りについている可愛い寝顔の省吾を見つめながら・・・・。
「私は、母は私を私生児で生んでしまったのです。母はなんでも芸者暮らしをして、そこそこお客さんもいたそうですが、そのお客さんで当時青年実業家という
人と内緒でお付き合いしていたそうで、戦争のお陰でだいぶお金儲けも良くはぶりも良かったそうですが、ある日、信頼していた部下の男が持ち金や銀行の預金すべてを
持ち逃げされて、貧乏のどん底へと落ちてしまい、残るは借金だらけとなり、お酒に溺れたあげく、結核を患い、死んでしまいました。母は私を一度堕胎しようとし
たのですが、諦めたそうです。せっかく神様から頂いた命だと思ったので、考えなおし、私を生む決心をしました。
女の性か意地かは分りませんが、私を無事出産しました。母は父となる人を心から愛していたのでしょうね。女って何て哀しい生き物だと今でも私は思っています。
母は、その後私の為に良く働きました。昼は軍需工場で働き夜は芸者として働きました。
私たち親子は本当に運が良く、下宿していた大家さんの奥さんがとてもお優しい方で、乳飲み子の私の面倒を見てくださったのです。ちょうど大家さんご夫婦
にはお子さんがいらっしゃらなかったので、私を子供代わりに私を可愛がってくださいました。
周囲のご理解や助けによって私は何とか4歳まで無事に育ちました・・・」
と話が進むうちに、幸の話し方が徐々に遅くなり、声のトーンも次第に低くなったので、清子は、
「幸さん、どうして幸さんとお母様は名づけたのでしょうか?」
「私の父親が、“幸吉”という名前から幸と名づけたらしいのですけれども、
大家さんの奥さんはよく私に『お母さんはいつもさっちゃんのことを、あの子にだけは一生幸せになって欲しいといつも涙をためながら話していた』と云っておりました。」
清子もその話を訊いて、思わず、眠りについている省吾に目を向けながら、
「本当にお母様はご苦労なさったのですね」と貰い泣きをしてしまった。(7/24 UP!)
幸は言葉に詰まり、数分間の沈黙が続いた。
おそらく、今まで他人に話したことが無いのであろう、幸の心の中で整理をつけているに違いないと清子は感じた。
そのような心の葛藤をしている幸の哀しげな表情を見ていると、清子は何か幸に対して言葉の拷問をしているかのような錯覚を覚え、
思わず幸の手を握り締めて、
「幸さん、もし、幸さんご自身のことを思い出すことが、幸さんにとってかなりの苦痛でしたら、何も今ここでお話にならなくても宜しいですよ。」
と幸の淋しげな瞳の奥を覗きながら云った。
そして幸は、何かを決意したかのように、物静かに言葉を綴り始めた。
大きくため息を一度吐き、話始めた。
「私が4歳の時、母が倒れてしまいました。おそらく働きすぎによる過労からきたのでしょう。体力も相当落ちていたそうです。大家さんご夫婦が
献身的に母を看病したらしいです。そのような献身的な看病にも係わらず、倒れて半年後に母は亡くなったそうです。でも、私はこれで良かった
のかなぁなんて思っているのですよ。だって、これ以上苦労して欲しくありませんでしたし、母にとっては、早く父とあの世で再会できたのでしょうから。
また、父も私の存在を知らずに亡くなったので、今ごろはあの世で母は父に私のことをきっとお話しているんだと思います。」
また、そこから幸は、30秒ほど沈黙した後、話を続けた。
「運命ってなんて不思議で皮肉なんでしょうね。母も父と同様に、結核で亡くなったそうです。本当に皮肉です。」
「幸さんはお母様がお亡くなりなった時のご記憶はありませんか?」
幸は、少し考えながら
「全く覚えてはなくはないのですが、僅かな記憶の中に一つだけ鮮明に覚えています。それは、『母の死顔』です。母の顔にはきれいにお化粧されて
とても綺麗で優しく本当に穏やかな母の顔でした。私はその時母の呟きが聴こえました。『さっちゃん、あなたとはたった4年間という短い月日だったけれど
お母さんは、本当にあなたを生んだこと良かったと心から思っています。一度も後悔なんてしていませんよ。あなたの可愛い寝顔、笑顔、泣き顔みんな
お母さんの宝物でした。さっちゃんには、おかあさん、苦労かけたくなかったから、ちょっと頑張りすぎたみたい。でもさっちゃんはお母さん似だからあなたも
きっと頑張り屋さんになるでしょうね。いつでも、あなたのことを見守り続けるから、いつも辛くなったら、お空を見なさい。いつもお母さんがお空の上であなた
を見守っていることを忘れないでね。いつもお母さんはさっちゃんの見方です。』と」
幸は、もう忘れかけていた脳裏の片隅に蘇ってきた記憶に唇を噛み締めながら、目頭に涙を溜まり始めていることに必死で耐えていた。
その哀しみを受け止めるには、若い清子にはとても辛辣の思いだった。幸にどのような言葉を発したら良いのか、皆目見当が見つからなかった。
沈黙の時間が流れた・・・。
最初に言葉を発したのは幸の方だった。
幸は話を続けた。なるだけ冷静さを装って。
「その後、大家さんご夫婦にご厄介になっていました。私が5歳になったら、養女にするとおしゃって頂いた時は、子供心にも心から嬉しく思い、心から感謝
しました。
そんなある日、突然、渇服のよろしい男の方が、大家さん宅に尋ねて来られました。こ一時間位お話されて行ったと思います。私はとても怖くて外へ飛び出して
しまいました。その男の人が玄関から出て来られると、私の方に歩いて来られ、私のおかっぱ頭を優しく撫でながら、『よく頑張ったね。さっちゃんは偉いね』と
云いながら帰って行かれました。
清子はその話を訊くや、ある考えが脳裏に閃いた。
「もしかして、もしかしてですが、その男の方って、父の吉幸ではありませんか?」(7/25 UP!)
少し間を置いて話を続けた。
「はい。若奥様のおっしゃるとおりです。」
「やはり、そうでしたか。でも、どうして緒方家は、幸さんの生い立ちをお話したがらないのでしょうか?」
「私もはっきりとしたことは解りませんが、おそらく大奥様の智子様は、母に対してあまり良く思っていらっしゃらないのでしょうね。
だから、母の娘である私も・・・・・。」
「私自身もあまり詳しいことは聴いておりませんが、吉幸様は、よく大蔵省関係の接待で神楽坂にある有名な料亭で母と知り合ったそうです。
母はそこの料亭でよく芸者として呼ばれたそうです。母は大変努力家で日本舞踏も三味線も一流だったそうなので、よくお声をかけてくださったそうです。
一度、母の調子が悪く顔色の血色が良くないときに、吉幸様がお帰りの際に『具合が悪そうだけれども、どうしたのですか?』と聴いて来られたそうで、
その時私が高熱を出して、母が夜通し、頭を冷やす為に起きて私を看病していたことをお話したら、手土産の上等なお寿司を母に手渡し『これを食べて栄養を
つけなさい。
』と云って頂き、母は嬉しさのあまり、何度も頭を下げ、「有り難うございます」と連呼したそうです。母はその吉幸様の暖かい行為に心から感謝していたそうです。」
「お父様も粋なことをなさる方なのですね。」
と、清子もとても嬉しくなった。
「1週間後にまた、料亭にいらしゃった時に、母を見つけるとすぐさま『お嬢さんはもう良くなりましたか?』ておしゃって、良くなったことを知ると,とても喜んで
くださったそうです。
この後です、運命の出来事が起こったのは・・・。」
「ある日、いつもの接待で吉幸様と数人のお客様がいらしゃった時のことです。その日に限ってお座敷に通された時の横顔がすぐれなくて母は『おや』と思ったらしい
のです。やはり吉幸様のお酒が進むたびに、益々顔色が悪くなり、お手洗いに立った時に、お倒れになってしまいました。
周囲の芸者たちも他のお客さんも突然の出来事でしたので、何をしたら良いか分らず、ただ呆然とその場を取り巻いているだけでした。(7/26 UP!)
どうやら吉幸様は、意識がないようでしたので、母は女将さんをすぐ呼びに行き、事情をはなしたところ、たまたまお客様用の送迎車が待機
していたので、母は吉幸様を乗せて、近くの大学病院の救急に運びました。車中でも母は、意識を早く取り戻すように、必死で何度もお名前を呼んでいたそうです。
10分位して、車が病院へ到着し、病院のドアを何度も叩き、それこそ声が潰れるのではないかの如く、大声で絶叫していたそうです。
明かりが付き、お医者様と数人の看護婦さんが出て来られ、すぐに治療室に運ばれ、救急の処置を施していまいた。
母はその光景をただ呆然と眺めるだけで、なす術(すべ)がなく、ふと我に帰り、吉幸様のご自宅に連絡を取ろうと思いついたのですが、ご住所も何も分らないことに
気づき、途方に暮れてしまいました。
母は冷静に気を取り戻し、ご家族の方に今までのことを正確に詳細に説明出来る事が一番だと確信したので、逐一、今の吉幸様の状態を医師や看護婦から邪魔に
ならない程度に、しっかり説明を受け、治療の様子を目の奥に刻み込んでいたそうです。
運ばれて1時間したところで、ようやく意識が戻り母は安堵したそうです。
先生のお話では、『もともと不整脈があり、軽度の心筋梗塞があって、おそらく疲労から来るものであろうということでしたが、もし来るのがもう少し遅かったら手遅れ
になっていて、今後さらに詳しい検査をする』と云ったそうです。」
「父は当時、少し仕事が忙しくなると、不整脈が出て、時々横になる時もあり、お母様は父のことがとても心配でしょっちゅう『病院へ行ってくださいませ。』と父
に懇願していたそうですが、医者嫌いの父はお母様の云うことなど一向に聴き入れなかったそうです。父もこんなに心臓病が悪化していたなんて予測もしていなかったのでしょう。
これで、少しはお母様の心配するお気持ちもお分かりになったと思います。案外父は頑固だったそうです。」
「吉幸様が意識を取り戻した時に母に何度もお礼をおしゃっていたそうです。『千代さんは、本当に命の恩人』だと何度も云っていたそうです。母としては『人が困っている時
人助けをするのは人間として当たり前です。』と云っていたそうですが。」(7/28 UP!)
To be continued !!